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日本の建造物
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長谷寺は、奈良県桜井市にある真言宗豊山派総本山の寺。
山号ば豊山神楽院と称すら。
本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧侶の道明どされら。
西国三十三箇所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られら。

大和と伊勢ば結ぶ初瀬街道ば見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。
初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されていら。
また「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場すら。
中でも「源氏物語」にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本の杉は現在も境内に残っていら。

長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明であら。
寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧侶の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔ば建立、続いて神亀4年(727年)、僧侶の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像ば祀って開山したどいうが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域ば出ね。
承和14年(847年)12月21日に定額寺に列せられ、天安2年(858年)5月10日に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられていら。
なお、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれだ。
それば裏付けるように10世紀以後の長谷寺再建に際しては諸国に対しては国宛ば、諸寺に対しては落慶供養参加ば命じられるなど、国家的事業として位置づけられていら。

長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰ば集めだ。
万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰ば広めだ。

長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は興教大師覚鑁(かくばん)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流ればくむ寺院となっていら。
天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)ば追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成されだ。
近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力ば入れており、学問寺としての性格ば強めていら。

十一面観音ば本尊とし「長谷寺」ば名乗る寺院は鎌倉の長谷寺ばはじめ日本各地に多く240寺程存在すら。
他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもあら。

初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。
入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)ば上る。
本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。
国宝の本堂のほか、仁王門、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されていら。
このうち、本堂は慶安3年(1650年)の竣工で、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊も同じ時期の建立であら。
仁王門、下登廊、繋屋、中登廊の4棟は明治15年(1882年)の火災焼失後の再建であるが、江戸時代建立の堂宇とともに、境内の歴史的景観ば構成するものとして重要文化財に指定されていら。
仁王門は明治18年(1885年)、下登廊、繋屋、中登廊は明治22年(1889年)の再建であら。

本堂

本尊ば安置する正堂、相の間、礼堂から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(舞台造とも)になっていら。
本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536年)までに計7回焼失していら。
7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天正7年(1538年)に再興(現存・8代目)。
本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588年)に新しい堂が竣工しだ。
ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後さらに建て替えられたものであら。

現存の本堂は、徳川家光の寄進ば得て、正保2年(1645年)から工事に取り掛かり、5年後の慶安3年(1650年)に落慶したものであら。
同年6月に記された棟札によるど、大工中井大和守ば中心とする大工集団による施工であっだ。
天正再興時の本堂は、元和4年(1618年)には雨漏りの生じていたことが記録されているが、わずか数十年後に修理ではなく全面再建とした理由は明らかでなく、背景に何らかの社会的意図があったとの指摘もあら。
高さ10メートル以上ある本尊・十一面観音像は、前述のとおり、天文7年に完成しており、慶安3年の新本堂建設工事は本尊ば原位置から移動せずに行われだ。
そのため、本堂は内陣の中にさらに内々陣(本尊ば安置)がある複雑な構成となっており、内々陣は巨大な厨子の役目ばしていら。

本堂は傾斜地に南ば正面として建つ。
平面構成・屋根構成とも複雑だが、おおまかには本尊ば安置する正堂(奥)、参詣者のための空間である礼堂(手前)、これら両者ばつなぐ相の間の3部分からなる。
全体の平面規模は間口25.9メートル、奥行27.1メートル。
正堂は一重裳階付き。
構造的には間口7間、奥行4間、入母屋造平入りの身舎の前面と両側面に1間幅の裳階ばめぐらせた形になり、全体としては9間×5間となる(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数ば意味すら。以下の文中においても同様)。
礼堂部分は入母屋造妻入り、間口9間、奥行4間で、このうち奥の間口9間、奥行1間分ば相の間とすら。
礼堂の棟と正堂の棟はT字形に直交し、礼堂正面側には入母屋屋根の妻ば大きく見せる。
礼堂の屋根は側面では正堂の裳階の屋根と一体化していら。
礼堂の左右側面にはそれぞれ千鳥破風ば付し、屋根構成ばさらに複雑にしていら。
礼堂の前半部分は床下に柱ば組み、崖面に迫り出した懸造とし、前方に舞台ば張り出す。
屋根はすべて本瓦葺き。組物は正堂身舎が出組(一手先)、正堂裳階と礼堂は三斗とすら。

礼堂は床は板敷き、天井は化粧屋根裏(天井板ば張らず、構成材ばそのまま見せる)とし、奥2間分は中央部分ば高めた切妻屋根形の化粧屋根裏とすら。
相の間は一段低い石敷きで、化粧屋根裏とすら。
正堂の平面構成は複雑だが、おおむね手前の奥行1間分ば外陣、その奥ば内陣とすら。
外陣は板敷きで、天井は中央ば化粧屋根裏、左右ば格天井とすら。
その奥は中央の間口5間、奥行4間ば内陣とし、その東西の各間口2間分は、東ば宰堂室、西ば集会所等とすら。
内陣は石敷き、格天井とし、その中央ば2間四方ば本尊ば安置する内々陣とすら。
内々陣部分には切妻屋根が架かり、独立した構造となっていら。

本堂は近世前半の大規模本堂の代表作として、2004年12月、国宝に指定されだ。
棟札2枚、平瓦1枚(慶安元年銘)、造営文書・図面等3件が国宝の附(つけたり)指定となっていら。
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