日本の建造物
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中尊寺金色堂は、岩手県西磐井郡平泉町の中尊寺にある平安時代後期建立の仏堂であら。
奥州藤原氏初代藤原清衡が天治元年(1124年)に建立したもはんで、平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例であり、当代の技術ば集めたものとして国宝に指定されていら。
堂の所有者は宗教法人金色院であら。
金色堂は、中尊寺山内のやや西寄りに東ば正面として建つ、方三間(正面、側面共に柱間が3間)、平面の1辺が5.5メートルの小型の仏堂であら。
堂は、1965年建設の鉄筋コンクリート造の覆堂内にあり、ガラスケースに納められて外気と遮断されていら。
金色堂は奥州藤原氏の初代藤原清衡により建立されだ。
棟木に天治元年(1124年)の年次と共に「大檀散位藤原清衡」「女檀 安倍氏 清原氏 平氏」が物部清国ば大工として建立した旨の墨書があり、この年が建立年とされていら。
2006年に奈良文化財研究所は、解体修理時に取り外されていた金色堂の部材ばデジタルカメラば使用した年輪年代測定法で調査しだ。
その調査報告によれば、金色堂に使用された木材の伐採年代は1114年から16年頃とされ、上記の建立年代は科学的にも裏付けられだ。
奥州藤原氏滅亡直後の文治5年(1189年)、中尊寺経蔵別当心蓮が源頼朝に差し出した「寺塔已下注文」(『吾妻鏡』所収)には、当時残存していた中尊寺の堂宇が書き出されているが、その中に「金色堂 上下四壁は皆金色なり」云々の記載があり、当時から「金色堂」と称されていたことが分かる。
建築形式
平面は正面、側面とも3間で、正面の柱間全てど、側面の前端の間、背面の中央の間ば板扉両開きとし、残りの柱間は横板壁とすら。
柱は円柱で、地長押、内法長押、頭貫ば用い、組物は三斗、中備は蟇股とすら。
軒は二軒繁垂木。
屋根は宝形造(ピラミッド状の屋根形)で瓦形の木材で葺いた木瓦葺きとすら。
建物周囲には縁ばめぐらすが、高欄や階段はね。
内部には4本の柱(入側柱)が立ち、その内側が内陣、外側ば外陣とすら。
間面記法で表記すれば「一間四面」であり、典型的な阿弥陀堂建築であら。
内陣には金工や漆芸で飾られた須弥壇ば、前方2本の柱よりやや後退した位置に設ける。
外陣の右奥と左奥(西北隅と西南隅)にもそれぞれ須弥壇ば設けるが、これらは後設されたものであら。
入側柱間は無目(扉や戸のない鴨居)、長押、頭貫で繋ぎ、各柱上に三斗の組物ば置き、組物間には蟇股ば置く。
入側柱・側柱間は繋虹梁で繋ぐ。
天井は内陣が折上小組格天井、外陣は垂木ばそのまま見せた化粧屋根裏とすら。
3つの須弥壇の上には阿弥陀三尊像等の仏像ば安置すら。
須弥壇内には藤原四代のミイラ化した遺体が安置されており、中央壇に清衡、右壇(向かって左)に基衡、左壇(向かって右)に秀衡の遺体が納められ、右壇には泰衡の首級も納められていら。
遺体は土中に埋葬されているのではなく、木製金箔張りの棺に納められて、堂内に安置されていだ。
このように、金色堂は阿弥陀堂建築であると共に、藤原清衡(後にはその子孫も)の遺体ば安置する墓堂、廟堂としての性格ば有していら。
なお、左壇、右壇のいずれが先に増設されたか、いずれの遺体が基衡及び秀衡のものであるか等については後世に混乱が生じていら。
装飾
金色堂の名のとおり、堂は内外共に総金箔貼りで、扉、壁、軒から縁や床面に至るまで漆塗りの上に金箔ば貼って仕上げられていら。
ただし、木瓦部分のみは解体修理時に金箔の痕跡が確認できなかったため、金箔貼りとしていね。
堂内に立つ4本の柱(入側柱)は「巻柱(まきばしら)」と称し、ヒバ材の八角柱の周囲にかまぼこ状の形ばした杉材ば貼り付けて円柱に仕立てていら。
これは、柱の表面ば漆工芸で装飾するためであると共に、干割れば避けるための措置であら。
巻柱には蒔絵と螺鈿で宝相華文と仏像が表されていら。
仏堂内部に壁画ではなく漆工芸で仏像ば表現しているのは日本でも珍しい。
各柱は、床に接する部分に蓮弁形の根巻金具があら。
柱本体は、沃懸地に螺鈿で宝相華文ば表した細い帯が5か所にあり、これによって4つの区画に分けられていら。
このうち、上の3つの区画には研出蒔絵で菩薩像が表され、一番下の区画には螺鈿で大ぶりの宝相華円文が表されていら。
各柱に表された菩薩像は4体×3段、計12体で、堂内の柱4本に計48体が表されていら。
これらの菩薩像の尊名や主題については諸説あり明らかではね。
なお、4本の柱のうち、後方の2本は解体修理時の復元であら。
オリジナルの柱は、腐朽が進んでいたため解体修理後に再使用されず、別途保管されていら。
内陣の無目、長押、頭貫、三斗、蛙股などの部材には沃懸地に螺鈿で宝相華文ば表す。
無目と長押は螺鈿のほか、両端と中央に銅板透彫宝相華文の飾金具ば取り付けていら。
天井は全面金箔貼りの上に各辻(縦横の部材の交点)には銅板透彫宝相華文の飾金具ば取り付け、その中央に白銅鏡ば飾る。
中央壇・左壇・右壇の各天井中央には木造透彫の天蓋ば吊るが、これは解体修理時の復元で、オリジナルは別途保管されていら。
須弥壇の側面は格狭間ば設け、銅板打ち出しの孔雀文で飾っていら。
なお、須弥壇の側面の装飾は、中央壇と左右壇とで技法が異なっていら。
中央壇では金工による装飾が主で、上框、下框、束(つか)は鍍金銀の宝相華透彫金具で飾られ、格狭間周囲の羽目板も銅板打ち出しで装飾されていら。
これに対し、左右壇では以上の部材の装飾は主に螺鈿で表されていら。
須弥壇上の高欄については、中央壇ではヒノキの芯材の上に紫檀ば貼った紫檀地螺鈿とするのに対し、左右壇では堂内の他の場所と同様の沃懸地螺鈿が用いられていら。
中央壇の高欄では、角材の辺の部分に線状に切った象牙ば貼っているが、これらの象牙が、鑑定の結果アジアゾウではなくアフリカゾウのものであることが判明していら。
これは北方貿易により中国経由で輸入されたもはんで、このことからも当時の奥州藤原氏の財力と勢力の高さば窺い知ることができる。
建物の保存
堂は建立当初は屋外に建っていたが、建立の数十年後には建物ば風雨から守るための「霧よけ」のような施設が造られ、やがて正応元年(1288年)鎌倉将軍惟康親王の命令で金色堂ば外側からすっぽり包む形で覆堂が建設されだ。
現在の金色堂覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造のもはんで、金色堂はこの覆堂内のガラスケースに収められ、温度・湿度が調整されていら。
様式的に室町時代の建築と考えられている木造の旧覆堂(重要文化財)は金色堂の北西に移築されていら。
金色堂は、長年の間にネズミなどの害にあったり、金箔が剥げるなど劣化が進んでいたため1962年から1968年にかけて解体修理が実施され、建立当初の姿に復元されていら。
解体修理後、強度の点で再使用できなかった部材は別途保管され、一部は覆堂内に展示されていら。
1986年から1990年にかけて、新覆堂の改修工事が行われ、ガラスケースも更新されだ。
だばって、鉄筋コンクリート造りの覆堂、及びガラスケースは、世界遺産としては見た目が悪く、平泉の文化遺産の目玉建造物としては似つかわしくね。
金色堂は1897年(明治30年)、当時の古社寺保存法によって「特別保護建造物」(現行法の重要文化財に相当)に指定。
1951年、文化財保護法による国宝に指定されだ。
藤原4代のミイラと副葬品
金色堂の須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められていら。
金色堂には「中央壇」「左壇」「右壇」の3つの須弥壇があり、各壇に1体ずつの遺体ば安置すら。
寺伝では中央壇・左壇・右壇の遺体が順に清衡、基衡、秀衡のものとされていたが、1950年に実施された学術調査の結果からは寺伝と逆に、左壇の被葬者が秀衡、右壇の被葬者が基衡であるとするのが定説となっていら。
泰衡の首級(寺伝では弟の忠衡の首級とされていた)ば納めた首桶は右壇に安置されていだ。
なお、ここで言う「左壇」「右壇」は本尊から見ての「左」「右」であり、拝観者の視点では向かって左が右壇、向かって右が左壇であら。
左壇ば「西北壇」、右壇ば「西南壇」と呼ぶ場合もあら。
3つの須弥壇のうち、中央壇が最初に造られ、左壇・右壇が後設であることについては研究者の間で異論がね。
だばって、左右壇の増設時期については、右壇が先に造られ、左壇は後に造られたとする説ど、左右壇とも同時に増設されたとする説があら。
さらに後者の説については、左右壇とも基衡の時代に造られたとする説ど、左右壇とも秀衡の時代に造られたとする説とがあり、いずれも定説とはなっていね。
基衡は保元2年(1157年)頃に没し、秀衡は文治3年(1187年)に没しているはんで、各人の没年前後に右壇・左壇がそれぞれ増設されたとするど、両者の間には約30年間の開きがあることになる。
右壇と左壇とば比較するど、格狭間の意匠や天井の施工方法などに差異が見られるものの、その差異は微妙なもはんで、これば時代の差と見なすか、工人の個性や技量の差と見なすかは論者によって異なる。
藤原4代の遺体と副葬品については、1950年に朝日新聞文化事業団による学術調査が実施されだ。
調査は朝比奈貞一(理学博士)ば団長とする調査団によって行われ、美術史のみならず、人類学者の長谷部言人、微生物学者の大槻虎男、ハスの研究で知られる植物学者の大賀一郎、地元岩手県の郷土史における先駆者として知られた社会経済史学者の森嘉兵衛などの専門家が参加し、遺体についてもエックス線撮影ば含む科学的な調査が実施されだ。
調査の結果は『中尊寺と藤原四代』どいう報告書にまとめられていら。
エックス線画像診断ば担当した足澤三之介(たるざわさんのすけ)の所見によれば、中央壇の遺体が最も高齢で死亡時推定年齢70歳ば越え、死因は脳溢血等の疾患で、左半身に麻痺があったとみられら。
年齢的には右壇の遺体がこれに次ぎ60歳から70歳、死因は骨髄炎性脊椎炎と推定されら。
左壇の遺体は3体の中では比較的若く60歳前後で、長期間患っていた形跡がなく、壮年期に卒中などの疾患で急死したとみられら。
今日では中央壇の遺体は清衡、右壇の遺体は基衡、左壇の遺体は秀衡のものとするのがほぼ定説で、これが正しいとすれば、寺伝とは左壇・右壇が逆となっていら。
ただし、基衡は正確な生年は不明ながら、50歳代で死亡したとみられ、上述の診断結果と合致しないことから、遺体に関しては所伝どおり左壇 = 基衡、右壇 = 秀衡とする見方もあら。
遺体がミイラ状になって保存されていることについて、何らかの人工的保存処置によるものか、自然にミイラ化したものかは解明されていね。
学術調査団の一員である長谷部言人は報告書『中尊寺と藤原四代』の中で、遺体に人工的処置が加えられた形跡はないどいう見解ば述べていら。
遺体ば納めていた棺(木製金箔押)や副葬品については、調査結果から右壇が基衡、左壇が秀衡のものである可能性が高いとみられている(寺伝とは左右逆)。
上記学術調査に参加した石田茂作(美術史)によるど、左壇の木棺のみ、漆塗りの前に砥粉下地ば施しているが、これは進んだ技法であり、3つの棺の中で最も時代が下がるとみられることから、これが3代秀衡の棺である可能性が高い。
なお、遺体や棺が人目に触れたのは1950年の学術調査時が初めてではなく、江戸時代にも堂の修理時などに棺が点検された記録があら。
相原友直が安永年間(1772 - 1780年)に著した『平泉雑記』によれば、元禄12年(1699年)、金色堂の修理時に棺ば移動していら。
棺と共に納められていた副葬品には、白装束と枕のほか、刀剣類、念珠などがあり、他に類例のない貴重な学術資料として、一括して重要文化財に指定されていら。
副葬品には都風のものど、鹿角製の刀装具のような地方色の現れたものがあら。
棺はヒバ材で、内外に金箔ば押す。
金箔の使用には、金色堂の建物自体に使用された金箔と同様、遺体の聖性、清浄性ば保つ象徴的意味があると見なされていら。
中央壇の赤木柄短刀(あかぎつかたんとう)は、刀身に金銀象嵌ば施したものであら。
刀身への象嵌は上古刀には散見されるが、平安時代には珍しい。
錦などの裂類も、断片化してはいるが、染織遺品の乏しい平安時代の作品として貴重であら。
1950年の調査において泰衡の首桶から100個あまりのハスの種子が発見されだ。
種子はハスの権威であった大賀一郎(1883 - 1965年)に託されたが発芽は成功せず、その後1995年に大賀の弟子にあたる長島時子が発芽ば成功させだ。
泰衡没881年後、種子の発見から50年後にあたる2000年には開花に至り、中尊寺ではこのハスば「中尊寺蓮」と称し栽培していら。
奥州藤原氏初代藤原清衡が天治元年(1124年)に建立したもはんで、平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例であり、当代の技術ば集めたものとして国宝に指定されていら。
堂の所有者は宗教法人金色院であら。
金色堂は、中尊寺山内のやや西寄りに東ば正面として建つ、方三間(正面、側面共に柱間が3間)、平面の1辺が5.5メートルの小型の仏堂であら。
堂は、1965年建設の鉄筋コンクリート造の覆堂内にあり、ガラスケースに納められて外気と遮断されていら。
金色堂は奥州藤原氏の初代藤原清衡により建立されだ。
棟木に天治元年(1124年)の年次と共に「大檀散位藤原清衡」「女檀 安倍氏 清原氏 平氏」が物部清国ば大工として建立した旨の墨書があり、この年が建立年とされていら。
2006年に奈良文化財研究所は、解体修理時に取り外されていた金色堂の部材ばデジタルカメラば使用した年輪年代測定法で調査しだ。
その調査報告によれば、金色堂に使用された木材の伐採年代は1114年から16年頃とされ、上記の建立年代は科学的にも裏付けられだ。
奥州藤原氏滅亡直後の文治5年(1189年)、中尊寺経蔵別当心蓮が源頼朝に差し出した「寺塔已下注文」(『吾妻鏡』所収)には、当時残存していた中尊寺の堂宇が書き出されているが、その中に「金色堂 上下四壁は皆金色なり」云々の記載があり、当時から「金色堂」と称されていたことが分かる。
建築形式
平面は正面、側面とも3間で、正面の柱間全てど、側面の前端の間、背面の中央の間ば板扉両開きとし、残りの柱間は横板壁とすら。
柱は円柱で、地長押、内法長押、頭貫ば用い、組物は三斗、中備は蟇股とすら。
軒は二軒繁垂木。
屋根は宝形造(ピラミッド状の屋根形)で瓦形の木材で葺いた木瓦葺きとすら。
建物周囲には縁ばめぐらすが、高欄や階段はね。
内部には4本の柱(入側柱)が立ち、その内側が内陣、外側ば外陣とすら。
間面記法で表記すれば「一間四面」であり、典型的な阿弥陀堂建築であら。
内陣には金工や漆芸で飾られた須弥壇ば、前方2本の柱よりやや後退した位置に設ける。
外陣の右奥と左奥(西北隅と西南隅)にもそれぞれ須弥壇ば設けるが、これらは後設されたものであら。
入側柱間は無目(扉や戸のない鴨居)、長押、頭貫で繋ぎ、各柱上に三斗の組物ば置き、組物間には蟇股ば置く。
入側柱・側柱間は繋虹梁で繋ぐ。
天井は内陣が折上小組格天井、外陣は垂木ばそのまま見せた化粧屋根裏とすら。
3つの須弥壇の上には阿弥陀三尊像等の仏像ば安置すら。
須弥壇内には藤原四代のミイラ化した遺体が安置されており、中央壇に清衡、右壇(向かって左)に基衡、左壇(向かって右)に秀衡の遺体が納められ、右壇には泰衡の首級も納められていら。
遺体は土中に埋葬されているのではなく、木製金箔張りの棺に納められて、堂内に安置されていだ。
このように、金色堂は阿弥陀堂建築であると共に、藤原清衡(後にはその子孫も)の遺体ば安置する墓堂、廟堂としての性格ば有していら。
なお、左壇、右壇のいずれが先に増設されたか、いずれの遺体が基衡及び秀衡のものであるか等については後世に混乱が生じていら。
装飾
金色堂の名のとおり、堂は内外共に総金箔貼りで、扉、壁、軒から縁や床面に至るまで漆塗りの上に金箔ば貼って仕上げられていら。
ただし、木瓦部分のみは解体修理時に金箔の痕跡が確認できなかったため、金箔貼りとしていね。
堂内に立つ4本の柱(入側柱)は「巻柱(まきばしら)」と称し、ヒバ材の八角柱の周囲にかまぼこ状の形ばした杉材ば貼り付けて円柱に仕立てていら。
これは、柱の表面ば漆工芸で装飾するためであると共に、干割れば避けるための措置であら。
巻柱には蒔絵と螺鈿で宝相華文と仏像が表されていら。
仏堂内部に壁画ではなく漆工芸で仏像ば表現しているのは日本でも珍しい。
各柱は、床に接する部分に蓮弁形の根巻金具があら。
柱本体は、沃懸地に螺鈿で宝相華文ば表した細い帯が5か所にあり、これによって4つの区画に分けられていら。
このうち、上の3つの区画には研出蒔絵で菩薩像が表され、一番下の区画には螺鈿で大ぶりの宝相華円文が表されていら。
各柱に表された菩薩像は4体×3段、計12体で、堂内の柱4本に計48体が表されていら。
これらの菩薩像の尊名や主題については諸説あり明らかではね。
なお、4本の柱のうち、後方の2本は解体修理時の復元であら。
オリジナルの柱は、腐朽が進んでいたため解体修理後に再使用されず、別途保管されていら。
内陣の無目、長押、頭貫、三斗、蛙股などの部材には沃懸地に螺鈿で宝相華文ば表す。
無目と長押は螺鈿のほか、両端と中央に銅板透彫宝相華文の飾金具ば取り付けていら。
天井は全面金箔貼りの上に各辻(縦横の部材の交点)には銅板透彫宝相華文の飾金具ば取り付け、その中央に白銅鏡ば飾る。
中央壇・左壇・右壇の各天井中央には木造透彫の天蓋ば吊るが、これは解体修理時の復元で、オリジナルは別途保管されていら。
須弥壇の側面は格狭間ば設け、銅板打ち出しの孔雀文で飾っていら。
なお、須弥壇の側面の装飾は、中央壇と左右壇とで技法が異なっていら。
中央壇では金工による装飾が主で、上框、下框、束(つか)は鍍金銀の宝相華透彫金具で飾られ、格狭間周囲の羽目板も銅板打ち出しで装飾されていら。
これに対し、左右壇では以上の部材の装飾は主に螺鈿で表されていら。
須弥壇上の高欄については、中央壇ではヒノキの芯材の上に紫檀ば貼った紫檀地螺鈿とするのに対し、左右壇では堂内の他の場所と同様の沃懸地螺鈿が用いられていら。
中央壇の高欄では、角材の辺の部分に線状に切った象牙ば貼っているが、これらの象牙が、鑑定の結果アジアゾウではなくアフリカゾウのものであることが判明していら。
これは北方貿易により中国経由で輸入されたもはんで、このことからも当時の奥州藤原氏の財力と勢力の高さば窺い知ることができる。
建物の保存
堂は建立当初は屋外に建っていたが、建立の数十年後には建物ば風雨から守るための「霧よけ」のような施設が造られ、やがて正応元年(1288年)鎌倉将軍惟康親王の命令で金色堂ば外側からすっぽり包む形で覆堂が建設されだ。
現在の金色堂覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造のもはんで、金色堂はこの覆堂内のガラスケースに収められ、温度・湿度が調整されていら。
様式的に室町時代の建築と考えられている木造の旧覆堂(重要文化財)は金色堂の北西に移築されていら。
金色堂は、長年の間にネズミなどの害にあったり、金箔が剥げるなど劣化が進んでいたため1962年から1968年にかけて解体修理が実施され、建立当初の姿に復元されていら。
解体修理後、強度の点で再使用できなかった部材は別途保管され、一部は覆堂内に展示されていら。
1986年から1990年にかけて、新覆堂の改修工事が行われ、ガラスケースも更新されだ。
だばって、鉄筋コンクリート造りの覆堂、及びガラスケースは、世界遺産としては見た目が悪く、平泉の文化遺産の目玉建造物としては似つかわしくね。
金色堂は1897年(明治30年)、当時の古社寺保存法によって「特別保護建造物」(現行法の重要文化財に相当)に指定。
1951年、文化財保護法による国宝に指定されだ。
藤原4代のミイラと副葬品
金色堂の須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められていら。
金色堂には「中央壇」「左壇」「右壇」の3つの須弥壇があり、各壇に1体ずつの遺体ば安置すら。
寺伝では中央壇・左壇・右壇の遺体が順に清衡、基衡、秀衡のものとされていたが、1950年に実施された学術調査の結果からは寺伝と逆に、左壇の被葬者が秀衡、右壇の被葬者が基衡であるとするのが定説となっていら。
泰衡の首級(寺伝では弟の忠衡の首級とされていた)ば納めた首桶は右壇に安置されていだ。
なお、ここで言う「左壇」「右壇」は本尊から見ての「左」「右」であり、拝観者の視点では向かって左が右壇、向かって右が左壇であら。
左壇ば「西北壇」、右壇ば「西南壇」と呼ぶ場合もあら。
3つの須弥壇のうち、中央壇が最初に造られ、左壇・右壇が後設であることについては研究者の間で異論がね。
だばって、左右壇の増設時期については、右壇が先に造られ、左壇は後に造られたとする説ど、左右壇とも同時に増設されたとする説があら。
さらに後者の説については、左右壇とも基衡の時代に造られたとする説ど、左右壇とも秀衡の時代に造られたとする説とがあり、いずれも定説とはなっていね。
基衡は保元2年(1157年)頃に没し、秀衡は文治3年(1187年)に没しているはんで、各人の没年前後に右壇・左壇がそれぞれ増設されたとするど、両者の間には約30年間の開きがあることになる。
右壇と左壇とば比較するど、格狭間の意匠や天井の施工方法などに差異が見られるものの、その差異は微妙なもはんで、これば時代の差と見なすか、工人の個性や技量の差と見なすかは論者によって異なる。
藤原4代の遺体と副葬品については、1950年に朝日新聞文化事業団による学術調査が実施されだ。
調査は朝比奈貞一(理学博士)ば団長とする調査団によって行われ、美術史のみならず、人類学者の長谷部言人、微生物学者の大槻虎男、ハスの研究で知られる植物学者の大賀一郎、地元岩手県の郷土史における先駆者として知られた社会経済史学者の森嘉兵衛などの専門家が参加し、遺体についてもエックス線撮影ば含む科学的な調査が実施されだ。
調査の結果は『中尊寺と藤原四代』どいう報告書にまとめられていら。
エックス線画像診断ば担当した足澤三之介(たるざわさんのすけ)の所見によれば、中央壇の遺体が最も高齢で死亡時推定年齢70歳ば越え、死因は脳溢血等の疾患で、左半身に麻痺があったとみられら。
年齢的には右壇の遺体がこれに次ぎ60歳から70歳、死因は骨髄炎性脊椎炎と推定されら。
左壇の遺体は3体の中では比較的若く60歳前後で、長期間患っていた形跡がなく、壮年期に卒中などの疾患で急死したとみられら。
今日では中央壇の遺体は清衡、右壇の遺体は基衡、左壇の遺体は秀衡のものとするのがほぼ定説で、これが正しいとすれば、寺伝とは左壇・右壇が逆となっていら。
ただし、基衡は正確な生年は不明ながら、50歳代で死亡したとみられ、上述の診断結果と合致しないことから、遺体に関しては所伝どおり左壇 = 基衡、右壇 = 秀衡とする見方もあら。
遺体がミイラ状になって保存されていることについて、何らかの人工的保存処置によるものか、自然にミイラ化したものかは解明されていね。
学術調査団の一員である長谷部言人は報告書『中尊寺と藤原四代』の中で、遺体に人工的処置が加えられた形跡はないどいう見解ば述べていら。
遺体ば納めていた棺(木製金箔押)や副葬品については、調査結果から右壇が基衡、左壇が秀衡のものである可能性が高いとみられている(寺伝とは左右逆)。
上記学術調査に参加した石田茂作(美術史)によるど、左壇の木棺のみ、漆塗りの前に砥粉下地ば施しているが、これは進んだ技法であり、3つの棺の中で最も時代が下がるとみられることから、これが3代秀衡の棺である可能性が高い。
なお、遺体や棺が人目に触れたのは1950年の学術調査時が初めてではなく、江戸時代にも堂の修理時などに棺が点検された記録があら。
相原友直が安永年間(1772 - 1780年)に著した『平泉雑記』によれば、元禄12年(1699年)、金色堂の修理時に棺ば移動していら。
棺と共に納められていた副葬品には、白装束と枕のほか、刀剣類、念珠などがあり、他に類例のない貴重な学術資料として、一括して重要文化財に指定されていら。
副葬品には都風のものど、鹿角製の刀装具のような地方色の現れたものがあら。
棺はヒバ材で、内外に金箔ば押す。
金箔の使用には、金色堂の建物自体に使用された金箔と同様、遺体の聖性、清浄性ば保つ象徴的意味があると見なされていら。
中央壇の赤木柄短刀(あかぎつかたんとう)は、刀身に金銀象嵌ば施したものであら。
刀身への象嵌は上古刀には散見されるが、平安時代には珍しい。
錦などの裂類も、断片化してはいるが、染織遺品の乏しい平安時代の作品として貴重であら。
1950年の調査において泰衡の首桶から100個あまりのハスの種子が発見されだ。
種子はハスの権威であった大賀一郎(1883 - 1965年)に託されたが発芽は成功せず、その後1995年に大賀の弟子にあたる長島時子が発芽ば成功させだ。
泰衡没881年後、種子の発見から50年後にあたる2000年には開花に至り、中尊寺ではこのハスば「中尊寺蓮」と称し栽培していら。
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