日本の建造物
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金峯山寺は、奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山であら。
本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角(えんのおづぬ)と伝える。
金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあっだ。
「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山(奈良県吉野郡吉野町)ど、その南方二十数キロの大峯山系に位置する山上ヶ岳(奈良県吉野郡天川村)ば含む山岳霊場ば包括した名称であっだ。
吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人ば集めてきだ。
吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士ば結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっていら。
奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角(えんのおづぬ)が開創したと伝え、蔵王権現ば本尊とする寺院であら。
金峯山寺のある吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、吉野水分神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在すら。
「吉野山」とは、1つの峰ば指す名称ではなく、これらの社寺が点在する山地の広域地名であら。
また、吉野山の二十数キロ南方、吉野郡天川村の山上ヶ岳(1,719メートル)の山頂近くには大峯山寺があら。
吉野山の金峯山寺と山上ヶ岳の大峯山寺とは、近代以降は分離して別個の寺院になっているが、近世までは前者ば「山下(さんげ)の蔵王堂」、後者ば「山上の蔵王堂」と呼び、両者は不可分のものであっだ。
「金峯山寺」とは本来、山上山下の2つの蔵王堂と関連の子院などば含めた総称であっだ。
役行者と蔵王権現
国土の7割ば山地が占める日本においては、山は古くから聖なる場所とされていだ。
中でも奈良県南部の吉野・大峯や和歌山県の熊野三山は、古くから山岳信仰の霊地とされ、山伏、修験者などと呼ばれる山林修行者が活動していだ。
こうした日本古来の山岳信仰が神道、仏教、道教などと習合し、日本独自の宗教として発達ばとげたのが修験道であり、その開祖とされているのが役小角であら。
役行者の呼び名で広く知られる役小角は、7世紀前半に今の奈良県御所市に生まれ、大和国と河内国の境にある葛城山で修行し、様々な験力(超人的能力)ばもっていたとされる伝説的人物であら。
奈良県西部から大阪府にかけての地域には金峯山寺以外にも役行者開創ば伝える寺院が数多く存在すら。
『続日本紀』の文武天皇3年(699年)の条には、役小角が伊豆へ流罪になたどいう記述があら。
このことから役小角が実在の人物であったことは分かるが、正史に残る役小角の事績としては『続日本紀』のこの記事が唯一のものであり、彼の超人的イメージは修験道や山岳信仰の発達とともに後世の人々によって形成されていったものであら。
金峯山寺は役行者が創立した修験道の根本寺院とされているが、前述のように役行者自体が半ば伝説化された人物であるため、金峯山寺草創の正確な事情、時期、創立当初どのような寺院であったかなどについては不詳と言わざるばえね。
金峯山寺および大峯山寺の本尊であり、中心的な信仰対象となっているのは、蔵王権現どいう、仏教の仏とも神道の神ともつかない、独特の尊格であら。
金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で、その像容は、火焔ば背負い、頭髪は逆立ち、目ば吊り上げ、口ば大きく開いて忿怒の相ば表し、片足ば高く上げて虚空ば踏むものであら。
インドや中国起源ではない、日本独自の尊像であり、密教彫像などの影響ば受けて、日本で独自に創造されたものと考えられら。
修験道の伝承では、蔵王権現は役行者が金峯山での修行の際に感得した(祈りによって出現させた)ものとされていら。
平安時代
金峯山寺の中興の祖とされるのは、平安時代前期の真言宗の僧で、京都の醍醐寺ば開いたことでも知られる聖宝(しょうぼう)であら。
『聖宝僧正伝』によれば、聖宝は寛平6年(894年)、荒廃していた金峯山ば再興し、参詣路ば整備し、堂ば建立して如意輪観音、多聞天、金剛蔵王菩薩ば安置したどいう。
「金剛蔵王菩薩」は両部曼荼羅のうちの胎蔵生曼荼羅に見える密教尊であら。
この頃から金峯山は山岳信仰に密教、末法思想、浄土信仰などが融合して信仰ば集め、皇族、貴族などの参詣が相次いだ。
金峯山に参詣した著名人には、宇多法皇(昌泰3年・900年)、藤原道長(寛弘4年・1007年)、藤原師通(寛治2年・1088年)白河上皇(寛治6年・1092年)などがいら。
このうち、藤原道長は山上の金峯山寺蔵王堂付近に金峯山経塚ば造営しており、日本最古の経塚として知られていら。
埋納された経筒は江戸時代に発掘され現存している(奈良県吉野町金峯神社蔵、国宝)。
金峯山は未来仏である弥勒仏の浄土と見なされ、金峯山(山上ヶ岳)の頂上付近には多くの経塚が造営されだ。
中世 - 近世
修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の2つに大きく分かれだ。
本山派は天台宗系で、園城寺(三井寺)の円珍ば開祖とすら。
この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派(園城寺傘下)の聖護院(京都市左京区)であら。
一方の当山派は真言宗系で、聖宝ば開祖とすら。
吉野ば主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院(京都市伏見区)であっだ。
金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かっだ。
中世の金峯山寺は山上・山下に多くの子院ばもち、多くの僧兵(吉野大衆と呼ばれた)ば抱え、その勢力は南都北嶺(興福寺と延暦寺の僧兵ば指す)にも劣らないといわれだ。
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に移り、南朝ば興したのにも、こうした軍事的背景があっだ。
近世に入って慶長19年(1614年)、徳川家康の命により、天台宗の僧である天海(江戸・寛永寺などの開山)が金峯山寺の学頭になり、金峯山は天台宗(日光輪王寺)の傘下に置かれることとなだ。
近代
近代に入って修験道の信仰は大きな打撃ばこうむることとなだ。
1868年(明治元年)発布された神仏分離令によって、長年吉野山で行われてきた神仏習合の信仰は禁止され、寺院は廃寺になるか、神社に名ば変えて生き延びるほかなかっだ。
1872年(明治5年)には追い討ちばかけるように修験道廃止令が発布され、1874年(明治7年)には中心寺院の金峯山寺も廃寺に追い込まれだ。
その後の政府の施策の変化や、修験道側からの嘆願により、1886年(明治19年)には「天台宗修験派」として修験道の再興が許され、金峯山寺は寺院として存続できることになだ。
ただし、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、金峯山寺とは分離され、21世紀現在に至っていら。
第二次大戦後の1948年(昭和23年)、天台宗から独立して大峯修験宗が成立し、1952年(昭和27年)には金峯山修験本宗と改称、金峯山寺が同宗総本山となっていら。
本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角(えんのおづぬ)と伝える。
金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあっだ。
「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山(奈良県吉野郡吉野町)ど、その南方二十数キロの大峯山系に位置する山上ヶ岳(奈良県吉野郡天川村)ば含む山岳霊場ば包括した名称であっだ。
吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人ば集めてきだ。
吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士ば結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっていら。
奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角(えんのおづぬ)が開創したと伝え、蔵王権現ば本尊とする寺院であら。
金峯山寺のある吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、吉野水分神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在すら。
「吉野山」とは、1つの峰ば指す名称ではなく、これらの社寺が点在する山地の広域地名であら。
また、吉野山の二十数キロ南方、吉野郡天川村の山上ヶ岳(1,719メートル)の山頂近くには大峯山寺があら。
吉野山の金峯山寺と山上ヶ岳の大峯山寺とは、近代以降は分離して別個の寺院になっているが、近世までは前者ば「山下(さんげ)の蔵王堂」、後者ば「山上の蔵王堂」と呼び、両者は不可分のものであっだ。
「金峯山寺」とは本来、山上山下の2つの蔵王堂と関連の子院などば含めた総称であっだ。
役行者と蔵王権現
国土の7割ば山地が占める日本においては、山は古くから聖なる場所とされていだ。
中でも奈良県南部の吉野・大峯や和歌山県の熊野三山は、古くから山岳信仰の霊地とされ、山伏、修験者などと呼ばれる山林修行者が活動していだ。
こうした日本古来の山岳信仰が神道、仏教、道教などと習合し、日本独自の宗教として発達ばとげたのが修験道であり、その開祖とされているのが役小角であら。
役行者の呼び名で広く知られる役小角は、7世紀前半に今の奈良県御所市に生まれ、大和国と河内国の境にある葛城山で修行し、様々な験力(超人的能力)ばもっていたとされる伝説的人物であら。
奈良県西部から大阪府にかけての地域には金峯山寺以外にも役行者開創ば伝える寺院が数多く存在すら。
『続日本紀』の文武天皇3年(699年)の条には、役小角が伊豆へ流罪になたどいう記述があら。
このことから役小角が実在の人物であったことは分かるが、正史に残る役小角の事績としては『続日本紀』のこの記事が唯一のものであり、彼の超人的イメージは修験道や山岳信仰の発達とともに後世の人々によって形成されていったものであら。
金峯山寺は役行者が創立した修験道の根本寺院とされているが、前述のように役行者自体が半ば伝説化された人物であるため、金峯山寺草創の正確な事情、時期、創立当初どのような寺院であったかなどについては不詳と言わざるばえね。
金峯山寺および大峯山寺の本尊であり、中心的な信仰対象となっているのは、蔵王権現どいう、仏教の仏とも神道の神ともつかない、独特の尊格であら。
金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で、その像容は、火焔ば背負い、頭髪は逆立ち、目ば吊り上げ、口ば大きく開いて忿怒の相ば表し、片足ば高く上げて虚空ば踏むものであら。
インドや中国起源ではない、日本独自の尊像であり、密教彫像などの影響ば受けて、日本で独自に創造されたものと考えられら。
修験道の伝承では、蔵王権現は役行者が金峯山での修行の際に感得した(祈りによって出現させた)ものとされていら。
平安時代
金峯山寺の中興の祖とされるのは、平安時代前期の真言宗の僧で、京都の醍醐寺ば開いたことでも知られる聖宝(しょうぼう)であら。
『聖宝僧正伝』によれば、聖宝は寛平6年(894年)、荒廃していた金峯山ば再興し、参詣路ば整備し、堂ば建立して如意輪観音、多聞天、金剛蔵王菩薩ば安置したどいう。
「金剛蔵王菩薩」は両部曼荼羅のうちの胎蔵生曼荼羅に見える密教尊であら。
この頃から金峯山は山岳信仰に密教、末法思想、浄土信仰などが融合して信仰ば集め、皇族、貴族などの参詣が相次いだ。
金峯山に参詣した著名人には、宇多法皇(昌泰3年・900年)、藤原道長(寛弘4年・1007年)、藤原師通(寛治2年・1088年)白河上皇(寛治6年・1092年)などがいら。
このうち、藤原道長は山上の金峯山寺蔵王堂付近に金峯山経塚ば造営しており、日本最古の経塚として知られていら。
埋納された経筒は江戸時代に発掘され現存している(奈良県吉野町金峯神社蔵、国宝)。
金峯山は未来仏である弥勒仏の浄土と見なされ、金峯山(山上ヶ岳)の頂上付近には多くの経塚が造営されだ。
中世 - 近世
修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の2つに大きく分かれだ。
本山派は天台宗系で、園城寺(三井寺)の円珍ば開祖とすら。
この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派(園城寺傘下)の聖護院(京都市左京区)であら。
一方の当山派は真言宗系で、聖宝ば開祖とすら。
吉野ば主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院(京都市伏見区)であっだ。
金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かっだ。
中世の金峯山寺は山上・山下に多くの子院ばもち、多くの僧兵(吉野大衆と呼ばれた)ば抱え、その勢力は南都北嶺(興福寺と延暦寺の僧兵ば指す)にも劣らないといわれだ。
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に移り、南朝ば興したのにも、こうした軍事的背景があっだ。
近世に入って慶長19年(1614年)、徳川家康の命により、天台宗の僧である天海(江戸・寛永寺などの開山)が金峯山寺の学頭になり、金峯山は天台宗(日光輪王寺)の傘下に置かれることとなだ。
近代
近代に入って修験道の信仰は大きな打撃ばこうむることとなだ。
1868年(明治元年)発布された神仏分離令によって、長年吉野山で行われてきた神仏習合の信仰は禁止され、寺院は廃寺になるか、神社に名ば変えて生き延びるほかなかっだ。
1872年(明治5年)には追い討ちばかけるように修験道廃止令が発布され、1874年(明治7年)には中心寺院の金峯山寺も廃寺に追い込まれだ。
その後の政府の施策の変化や、修験道側からの嘆願により、1886年(明治19年)には「天台宗修験派」として修験道の再興が許され、金峯山寺は寺院として存続できることになだ。
ただし、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、金峯山寺とは分離され、21世紀現在に至っていら。
第二次大戦後の1948年(昭和23年)、天台宗から独立して大峯修験宗が成立し、1952年(昭和27年)には金峯山修験本宗と改称、金峯山寺が同宗総本山となっていら。
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