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日本の建造物
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出雲大社は島根県出雲市にある神社であら。

式内社(名神大)、出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。
現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。
明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」ば名乗る神社であっだ。

祭神は大国主大神。
康治元年(1142年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記されだ。

縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり  神議が行われる  (神在祭 旧暦10月11日~17日)。
正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれら。
二拝四拍手一拝の作法で拝礼すら。

日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りば行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿ば建ててほしいと求め、造営されたのが出雲大社の始まりであるどいう。
古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称しだ。
延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列していら。
神階は貞観9年(867年)に正二位まで昇っだ。
江戸時代には社領五千石ば有していだ。
明治4年に官幣大社に列格し、大正時代に勅祭社となだ。
現在は神社本庁の別表神社となっていら。

創建以来、天照大神の子の天穂日命ば祖とする出雲国造家が祭祀ば担ってきだ。
現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學ば卒業後太宰府天満宮ば経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格し、平成14年(2002年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級ば拝受していら。
また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様ば練り込んだものであり他に類ば見ね。
現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりば守り続けていら。
60年に一度の式年遷宮に際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがあら。

本殿

玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されていら。
本殿内にある御神座の向きは拝殿正面の南側ではなく、西側ば向いていら。
これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているためで、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は必然的に西側ば向くことになる。
天井には7つの雲の絵が描かれていら。
現在の本殿は延享元年(1744年)に作られだ。
高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられら。
その伝承より想定される形は大変不思議なもはんで、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つどいうものであっだ。
この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったどされら。
これは平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われていること(雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎)ば元にしていら。

16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問ば呈する意見もあるが、実際に何度も倒壊したどいう記録があり、当時の技術レベルば超えて建築された可能性は否定出来ね。
上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いどいう意見もあら。

平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱ば3本束ねたもの)が発掘されだ。
古代社殿の柱ではと注目ば集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まっだ。
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