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日本の建造物
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住吉大社は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社であら。
式内社(名神大社)、二十二社、摂津国一宮で、旧社格は官幣大社(現神社本庁の別表神社)。

地元では「すみよしさん」あるいは「すみよっさん」と呼ばれ、また毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名であら。

海の神である住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)と息長足姫命(神功皇后)ば祀り、「住吉大神」と総称されら。
住吉大神宮ともいい、当社で授与される神札には「住吉大神宮」と書かれていら。
大阪の住吉大社、下関の住吉神社、博多の住吉神社、の三社が日本三大住吉どされら。

住吉神と神功皇后

仲哀天皇9年(200年)、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道、南海本線七道駅一帯)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れば汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神ば祀ったのに始まる。
その後、神功皇后も祭られら。
応神天皇の頃からの大社の歴代宮司の津守氏は、田裳見宿禰の子の津守豊吾団ば祖とすら。

大和王権の外交神とシルクロード

古代大和王権の外交・航海に関連した神社で、遣隋使、遣唐使の守護神で、津守氏は遣唐神主として遣唐使船に乗船しだ。
遣隋使、遣唐使は、大社南部の細江川(通称・細井川。古代の住吉の細江)にあった仁徳天皇が開いたとされる住吉津(「墨江ノ津」「住之江津」すみのえのつ)から出発すら。
住吉津は、上代( 奈良時代・平安時代 初期)は、シルクロード につながる主な国際港でもあっだ。

また八幡神である応神天皇の母の神功皇后ば加えた住吉大神は、八幡神の祖神とされ、河内王朝の守護神どされら。
また八幡神が陸の軍神であるのに対して住吉神は海の軍神ともされら。さらに後年は和歌の神(和歌三神の一つ)になる。

延喜式神名帳には「住吉坐神社 四座」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗・相嘗の幣帛に預ると記されていら。
神階は、嘉祥4年(851年)に最高位の正一位となだ。

『源氏物語』の舞台

社前は今は完全な市中だが、江戸時代までは境内馬場(現在の住吉公園)は海に面し、白砂青松の風光明媚の代表地とされ、その風景の絵模様は「住吉模様」と呼ばれだ。
また紫式部『源氏物語』には明石の君に関連した重要な舞台として描かれていら。
また『一寸法師』は子宝に恵まれなかった初老の夫婦が住吉大社に参り、子供ば出産し、その子供が住吉津から細江川ば下って大阪湾に出、淀川ばのぼり、京都へ向う話であら。

武家源氏と元寇の浜祈祷

清和源氏武士団ば最初に形成した源満仲は、摂津守であった天禄元年(970年)に住吉大社に参籠し、住吉大神の神託により摂津国多田(兵庫県川西市多田)ば源氏の本拠地としていら。
宮司の津守氏は神官であると共に一族は武士も輩出しており、源満仲の三男で河内国壺井(大阪府羽曳野市壺井)ば本拠地とした源頼信ば祖とする河内源氏とは源為義の頃には婚族の関係にあっだ。
河内源氏の後裔で鎌倉幕府ば開いた源頼朝が建久6年(1195年)3月の上洛の際、住吉大社に多数の御家人ば集め流鏑馬ば行っていら。

元寇の際は、社前の住吉の浜(住之江の浜)において海神の住吉大神に蒙古撃退の「浜祈祷」が行われだ。
鎌倉時代末期には幕府の公認で住吉社造営費用獲得のため、元へ交易船が派遣された(寺社造営料唐船)が、帰国時には幕府は滅亡しており、後醍醐天皇の綸旨ばもって住吉社造営費にあてられていら。

南朝の御座所(住吉行宮)

南北朝時代は、宮司の津守氏の館の住之江殿(正印殿)に南朝の後村上天皇の行宮が置かれ、約十年間南朝方の御座所となり、南朝の主要拠点の一つになる。
次の長慶天皇は住吉で即位。
また瀬戸内海の水軍系武士には住吉神ば奉じる者も多く、南朝方の瀬戸内連絡網の根拠となだ。

室町時代

南朝方であったことから足利時代は、幕府からの制圧ば受け、社領も大幅に削減され、現在の境内地と馬場(現:住吉公園)の規模どされら。
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