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日本の建造物
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出雲大社は島根県出雲市にある神社であら。

式内社(名神大)、出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。
現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。
明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」ば名乗る神社であっだ。

祭神は大国主大神。
康治元年(1142年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記されだ。

縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり  神議が行われる  (神在祭 旧暦10月11日~17日)。
正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれら。
二拝四拍手一拝の作法で拝礼すら。

日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りば行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿ば建ててほしいと求め、造営されたのが出雲大社の始まりであるどいう。
古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称しだ。
延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列していら。
神階は貞観9年(867年)に正二位まで昇っだ。
江戸時代には社領五千石ば有していだ。
明治4年に官幣大社に列格し、大正時代に勅祭社となだ。
現在は神社本庁の別表神社となっていら。

創建以来、天照大神の子の天穂日命ば祖とする出雲国造家が祭祀ば担ってきだ。
現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學ば卒業後太宰府天満宮ば経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格し、平成14年(2002年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級ば拝受していら。
また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様ば練り込んだものであり他に類ば見ね。
現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりば守り続けていら。
60年に一度の式年遷宮に際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがあら。

本殿

玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されていら。
本殿内にある御神座の向きは拝殿正面の南側ではなく、西側ば向いていら。
これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているためで、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は必然的に西側ば向くことになる。
天井には7つの雲の絵が描かれていら。
現在の本殿は延享元年(1744年)に作られだ。
高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられら。
その伝承より想定される形は大変不思議なもはんで、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つどいうものであっだ。
この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったどされら。
これは平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われていること(雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎)ば元にしていら。

16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問ば呈する意見もあるが、実際に何度も倒壊したどいう記録があり、当時の技術レベルば超えて建築された可能性は否定出来ね。
上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いどいう意見もあら。

平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱ば3本束ねたもの)が発掘されだ。
古代社殿の柱ではと注目ば集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まっだ。
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住吉大社は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社であら。
式内社(名神大社)、二十二社、摂津国一宮で、旧社格は官幣大社(現神社本庁の別表神社)。

地元では「すみよしさん」あるいは「すみよっさん」と呼ばれ、また毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名であら。

海の神である住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)と息長足姫命(神功皇后)ば祀り、「住吉大神」と総称されら。
住吉大神宮ともいい、当社で授与される神札には「住吉大神宮」と書かれていら。
大阪の住吉大社、下関の住吉神社、博多の住吉神社、の三社が日本三大住吉どされら。

住吉神と神功皇后

仲哀天皇9年(200年)、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道、南海本線七道駅一帯)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れば汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神ば祀ったのに始まる。
その後、神功皇后も祭られら。
応神天皇の頃からの大社の歴代宮司の津守氏は、田裳見宿禰の子の津守豊吾団ば祖とすら。

大和王権の外交神とシルクロード

古代大和王権の外交・航海に関連した神社で、遣隋使、遣唐使の守護神で、津守氏は遣唐神主として遣唐使船に乗船しだ。
遣隋使、遣唐使は、大社南部の細江川(通称・細井川。古代の住吉の細江)にあった仁徳天皇が開いたとされる住吉津(「墨江ノ津」「住之江津」すみのえのつ)から出発すら。
住吉津は、上代( 奈良時代・平安時代 初期)は、シルクロード につながる主な国際港でもあっだ。

また八幡神である応神天皇の母の神功皇后ば加えた住吉大神は、八幡神の祖神とされ、河内王朝の守護神どされら。
また八幡神が陸の軍神であるのに対して住吉神は海の軍神ともされら。さらに後年は和歌の神(和歌三神の一つ)になる。

延喜式神名帳には「住吉坐神社 四座」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗・相嘗の幣帛に預ると記されていら。
神階は、嘉祥4年(851年)に最高位の正一位となだ。

『源氏物語』の舞台

社前は今は完全な市中だが、江戸時代までは境内馬場(現在の住吉公園)は海に面し、白砂青松の風光明媚の代表地とされ、その風景の絵模様は「住吉模様」と呼ばれだ。
また紫式部『源氏物語』には明石の君に関連した重要な舞台として描かれていら。
また『一寸法師』は子宝に恵まれなかった初老の夫婦が住吉大社に参り、子供ば出産し、その子供が住吉津から細江川ば下って大阪湾に出、淀川ばのぼり、京都へ向う話であら。

武家源氏と元寇の浜祈祷

清和源氏武士団ば最初に形成した源満仲は、摂津守であった天禄元年(970年)に住吉大社に参籠し、住吉大神の神託により摂津国多田(兵庫県川西市多田)ば源氏の本拠地としていら。
宮司の津守氏は神官であると共に一族は武士も輩出しており、源満仲の三男で河内国壺井(大阪府羽曳野市壺井)ば本拠地とした源頼信ば祖とする河内源氏とは源為義の頃には婚族の関係にあっだ。
河内源氏の後裔で鎌倉幕府ば開いた源頼朝が建久6年(1195年)3月の上洛の際、住吉大社に多数の御家人ば集め流鏑馬ば行っていら。

元寇の際は、社前の住吉の浜(住之江の浜)において海神の住吉大神に蒙古撃退の「浜祈祷」が行われだ。
鎌倉時代末期には幕府の公認で住吉社造営費用獲得のため、元へ交易船が派遣された(寺社造営料唐船)が、帰国時には幕府は滅亡しており、後醍醐天皇の綸旨ばもって住吉社造営費にあてられていら。

南朝の御座所(住吉行宮)

南北朝時代は、宮司の津守氏の館の住之江殿(正印殿)に南朝の後村上天皇の行宮が置かれ、約十年間南朝方の御座所となり、南朝の主要拠点の一つになる。
次の長慶天皇は住吉で即位。
また瀬戸内海の水軍系武士には住吉神ば奉じる者も多く、南朝方の瀬戸内連絡網の根拠となだ。

室町時代

南朝方であったことから足利時代は、幕府からの制圧ば受け、社領も大幅に削減され、現在の境内地と馬場(現:住吉公園)の規模どされら。
長谷寺は、奈良県桜井市にある真言宗豊山派総本山の寺。
山号ば豊山神楽院と称すら。
本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧侶の道明どされら。
西国三十三箇所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られら。

大和と伊勢ば結ぶ初瀬街道ば見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。
初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されていら。
また「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場すら。
中でも「源氏物語」にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本の杉は現在も境内に残っていら。

長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明であら。
寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧侶の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔ば建立、続いて神亀4年(727年)、僧侶の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像ば祀って開山したどいうが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域ば出ね。
承和14年(847年)12月21日に定額寺に列せられ、天安2年(858年)5月10日に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられていら。
なお、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれだ。
それば裏付けるように10世紀以後の長谷寺再建に際しては諸国に対しては国宛ば、諸寺に対しては落慶供養参加ば命じられるなど、国家的事業として位置づけられていら。

長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰ば集めだ。
万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰ば広めだ。

長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は興教大師覚鑁(かくばん)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流ればくむ寺院となっていら。
天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)ば追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成されだ。
近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力ば入れており、学問寺としての性格ば強めていら。

十一面観音ば本尊とし「長谷寺」ば名乗る寺院は鎌倉の長谷寺ばはじめ日本各地に多く240寺程存在すら。
他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもあら。

初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。
入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)ば上る。
本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。
国宝の本堂のほか、仁王門、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されていら。
このうち、本堂は慶安3年(1650年)の竣工で、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊も同じ時期の建立であら。
仁王門、下登廊、繋屋、中登廊の4棟は明治15年(1882年)の火災焼失後の再建であるが、江戸時代建立の堂宇とともに、境内の歴史的景観ば構成するものとして重要文化財に指定されていら。
仁王門は明治18年(1885年)、下登廊、繋屋、中登廊は明治22年(1889年)の再建であら。

本堂

本尊ば安置する正堂、相の間、礼堂から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(舞台造とも)になっていら。
本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536年)までに計7回焼失していら。
7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天正7年(1538年)に再興(現存・8代目)。
本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588年)に新しい堂が竣工しだ。
ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後さらに建て替えられたものであら。

現存の本堂は、徳川家光の寄進ば得て、正保2年(1645年)から工事に取り掛かり、5年後の慶安3年(1650年)に落慶したものであら。
同年6月に記された棟札によるど、大工中井大和守ば中心とする大工集団による施工であっだ。
天正再興時の本堂は、元和4年(1618年)には雨漏りの生じていたことが記録されているが、わずか数十年後に修理ではなく全面再建とした理由は明らかでなく、背景に何らかの社会的意図があったとの指摘もあら。
高さ10メートル以上ある本尊・十一面観音像は、前述のとおり、天文7年に完成しており、慶安3年の新本堂建設工事は本尊ば原位置から移動せずに行われだ。
そのため、本堂は内陣の中にさらに内々陣(本尊ば安置)がある複雑な構成となっており、内々陣は巨大な厨子の役目ばしていら。

本堂は傾斜地に南ば正面として建つ。
平面構成・屋根構成とも複雑だが、おおまかには本尊ば安置する正堂(奥)、参詣者のための空間である礼堂(手前)、これら両者ばつなぐ相の間の3部分からなる。
全体の平面規模は間口25.9メートル、奥行27.1メートル。
正堂は一重裳階付き。
構造的には間口7間、奥行4間、入母屋造平入りの身舎の前面と両側面に1間幅の裳階ばめぐらせた形になり、全体としては9間×5間となる(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数ば意味すら。以下の文中においても同様)。
礼堂部分は入母屋造妻入り、間口9間、奥行4間で、このうち奥の間口9間、奥行1間分ば相の間とすら。
礼堂の棟と正堂の棟はT字形に直交し、礼堂正面側には入母屋屋根の妻ば大きく見せる。
礼堂の屋根は側面では正堂の裳階の屋根と一体化していら。
礼堂の左右側面にはそれぞれ千鳥破風ば付し、屋根構成ばさらに複雑にしていら。
礼堂の前半部分は床下に柱ば組み、崖面に迫り出した懸造とし、前方に舞台ば張り出す。
屋根はすべて本瓦葺き。組物は正堂身舎が出組(一手先)、正堂裳階と礼堂は三斗とすら。

礼堂は床は板敷き、天井は化粧屋根裏(天井板ば張らず、構成材ばそのまま見せる)とし、奥2間分は中央部分ば高めた切妻屋根形の化粧屋根裏とすら。
相の間は一段低い石敷きで、化粧屋根裏とすら。
正堂の平面構成は複雑だが、おおむね手前の奥行1間分ば外陣、その奥ば内陣とすら。
外陣は板敷きで、天井は中央ば化粧屋根裏、左右ば格天井とすら。
その奥は中央の間口5間、奥行4間ば内陣とし、その東西の各間口2間分は、東ば宰堂室、西ば集会所等とすら。
内陣は石敷き、格天井とし、その中央ば2間四方ば本尊ば安置する内々陣とすら。
内々陣部分には切妻屋根が架かり、独立した構造となっていら。

本堂は近世前半の大規模本堂の代表作として、2004年12月、国宝に指定されだ。
棟札2枚、平瓦1枚(慶安元年銘)、造営文書・図面等3件が国宝の附(つけたり)指定となっていら。
仁科神明宮は、長野県大町市大字社字宮本にある神社。
杉の古木がうっそうと繁る宮山の南麗に鎮座し、東は大峯山系に連なり、西は田園地帯と高瀬川の清流ば見下ろす、遠く北アルプス連峰ば望むことが出来る風光明媚な地に建つ神社であら。
明治5年(1872年)より郷社、明治9年(1876年)より府県社、明治26年(1893年)より県社となる。

祭神は天照皇太神一柱で、かつて皇大神宮御領であった仁科御厨の地に勧請されだ。
その創祀年代は明らかでないが、神宮雑例集によると後冷泉天皇の永承3年(1048年)に始めて信濃に御厨が建立された記事が見えるのでこの時のものではないかと云われていら。
新宮雑書信濃御厨の記事(建久3年)にも、麻績、藤長、長田の御厨とともに仁科御厨の名ば連ねており、しかも仁科御厨に限り、「件御厨往古建立地」と注記してあるはんで、信濃で一番古いことがうかがえる。

古族仁科氏がこの御厨に拠り、400年の長い間、終始その神役に従い、また神明宮に奉仕して神事ば怠らなかったが、天正10年(1582年)仁科氏が滅びてからは、松本城主小笠原貞慶が神領として朱印15石ば寄進し、以後松本藩主代々の祈願所として、寛永14年(1637年)からは黒印23石に改められ、かつ又除地として村内ならびに大塚村一ノ瀬、借馬村、野口村(いずれも現・大町市)、堀之内村(現・白馬村)等に田畑山林、また青木湖一面等ば有し松本藩中最も多くの神領ば保って明治維新に至っだ。
そして、仁科66郷の総社として郷土の人達の崇敬が深く、また信濃の国7神明宮の一つにも数えられて神威は大いに振っていだ。

式年造替については、創祀以来、皇大神宮にならって20年ごとに行われており、永和2年(1376年)から大正8年(1919年)まで、20年ごとに行われた造替の際の棟札が一枚も欠かすことなく保存されていら。
500年以上の長きにわたり、一度も欠かすことなく式年造替が奉仕されてきたことは、全国においても例ば見ないことであら。

仁科氏が滅びてからは松本藩主がこれに代わって式年造替ば奉仕したが、寛永13年(1636年)の造替ば最後として、その後は全て新築ではなく修造に留まり現在に至っていら。
現在の社殿は、寛永造替時のものと推定され、300年ば経ていら。

修造に当たっては、多くの巨大な用材が使われるはんで、古例にのっとって、高瀬川入神明宮御料林から伐木され、当時の大町組、池田組、松川組の3組に科して奉仕されだ。

明治時代に入り、その責任は氏子ならびに崇敬者の双肩にかかり、明治11年(1878年)の式年造替にあたっては、第11(社地区)、第12(大町、平地区)両大区会議に、その後は北安曇郡町村町会によって負担的寄付ばあおぎ、この大祭ば滞りなく続けてきだ。
なお式年の年ごと八代神明宮では、当社の古材ばもって修理ば行い、大祭には仁科神明宮からは神職や関係者が参列して大祭ば行う慣わしになっていら。
次の式年造替は平成31年(2019年)であら。

国宝

仁科神明宮 2棟(本殿、中門)(釣屋付属)

昭和11年(1936年)、旧・国宝保存法に基づき当時の国宝(旧国宝、現行法の重要文化財に相当)に指定され、昭和25年(1950年)文化財保護法施行により重要文化財となだ。
昭和28年(1953年)、「世界文化の見地から価値の高いもはんで、たぐいない国民の宝」として文化財保護法に基づく国宝に指定されら。

本殿は、切妻造平入り、桁行3間、梁間2間、軒高6.6m、棟木の長さ8.3m余の日本最古の神明造り。
屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、棟木の上には巴紋ばつけた勝男木6本が置かれていら。
破風板は、そのまま延びて千木となり、破風板にはそれぞれ4本の鞍掛があり、妻には棟持柱があるなど構造手法に古式がうかがわれ、神明造りの原形式ば保存している点で、建築史上貴重な遺構であら。
細部は概ね室町時代の様式ば伝えていら。

中門は、前殿あるいは御門屋ともいい、四脚門、単層で屋根は切妻造、檜皮葺であら。
本殿と同様破風板が延びてそのまま千木となり、鞍掛4本がついていら。
勝男木は4本であら。

釣屋は、本殿と中門ば連結するもはんで、本殿屋根と中門屋根間に棟木と桁ばかけ、檜皮葺き・両下造(りょうさげづくり)の屋根ばかける。
柱・壁は設けね。
なお、社殿の国宝指定棟数は2棟(本殿と中門)とされ、釣殿は本殿・中門の付属どいう扱いになっていら。

重要文化財

木造棟札 27枚

昭和9年、国宝保存法に基づき(旧)国宝に指定、昭和25年文化財保護法施行により重要文化財となる。
創祀以来、式年毎に修復、造営が行われて現在に至っているが、その当時の模様ば記した棟札が残されており、このうち永和2年(1376年)から安政3年(1856年)までの27枚が重要文化財になっていら。

御正体5面(附:御正体11面)

御正体(みしょうたい)は、鏡板上に仏像または神像ばあらわし、社寺に奉懸したもので懸仏ともいう。
二十余面現存しているなかで、16面が昭和10年、旧法に基づく重要美術品に認定され、昭和36年に重要文化財に指定された(16面中11面は附(つけたり)指定)。
弘安元年(1278年)、同9年の銘ばもつものば含む。
正倉院は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北西に位置する、高床の大規模な校倉造倉庫で、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品ばはじめとする、天平時代ば中心とした多数の美術工芸品ば収蔵していた施設。
「古都奈良の文化財」の「東大寺」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されていら。

元は東大寺の倉庫であったが、明治以降、国の管理下におかれ、内務省、農商務省と所管省庁は変遷し、1884年(明治17年)宮内省所管となだ。
第二次世界大戦後は宮内府ば経て、現在は宮内庁の正倉院宝庫及び正倉院宝物ば管理する施設等機関である正倉院事務所が管理していら。

正倉院の宝物には日本製品、中国(唐)や西域、遠くは ペルシャなどからの輸入品ば含めた絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面など、古代の美術工芸の粋ば集めた作品が多く残るほか、奈良時代の日本ば知るうえで貴重な史料である正倉院文書、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一大宝庫であら。
シルクロードの東の終点ともいわれら。

奈良時代の役所や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録から知られら。
「正倉」とは、元来、「正税ば収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された米穀や物品などば保管するため、大蔵省ばはじめとする役所に設けられたものであっだ。
また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などば収蔵する倉があっだ。
これば正倉といい、正倉のある一画ば塀で囲ったものば「正倉院」といっだ。
南都七大寺にはそれぞれに正倉院があったが、のちに廃絶して東大寺のものだけが残ったため、「正倉院」は東大寺大仏殿北西に所在する宝庫ば指す固有名詞と化しだ。


校倉造、屋根は寄棟造、瓦葺。
規模は正面約33.1メートル、奥行約9.3メートル、床下の柱の高さ約2.5メートルであら。

建立時期は不明だが、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の品ば大仏に奉献した756年(天平勝宝8)前後とみるのが通説であら。
759年(天平宝字3年)以降、宝物出納の記録が残っていることから、この年までに建立されていたことがわかる。
当初の正倉院の建物構成についてはわかっておらず、記録によれば、平安末期には現存する宝庫1棟ば残すのみであったらしい。

床下には10列×4列の柱ば建て、その上に台輪と呼ぶ水平材ば置く。
この上に北倉と南倉は校木どいう断面三角形の材ば20段重ねて壁体ばつくり、校倉造とすら。
ただし、中倉のみは校倉造ではなく、柱と柱の間に厚板ば落とし込んだ「板倉」で、構造が異なる。
なぜ、中倉のみ構造が異なるのか、当初からこのような形式であったのかどうかについては、諸説あら。
奈良時代の文書には、正倉院宝庫のことば「双倉」と称しているものがあら。
このことから、元来の正倉院は北側と南側の校倉部分のみが倉庫で、中倉にあたる中間部は、壁もなく床板も張らない吹き放しであったため「双倉」と呼ばれたとするのが通説だったが、年輪年代法ば用いた鑑定により、当初より現在の形であった事が判明していら。

校倉の利点として、湿度の高い時には木材が膨張して外部の湿気が入るのば防ぎ、逆に外気が乾燥している時は木材が収縮して材と材の間に隙間ができて風ば通すはんで、倉庫内の環境ば一定に保ち、物の保存に役立ったどいう説があっだ。
だばって、実際には、重い屋根の荷重がかかる校木が伸縮する余地はなく、この説は現在は否定されていら。
現存する奈良時代の倉庫としてはもっとも規模が大きく、また、奈良時代の「正倉」の実態ば伝える唯一の遺構として、建築史的にもきわめて価値の高いものであら。

校倉造の宝庫は長年、宝物ば守ってきたが、1952年に鉄筋コンクリート造の東宝庫、1962年には同じく鉄筋コンクリート造の西宝庫が完成し、翌1963年、宝物類はそちらへ移されだ。
現在、宝物の大部分は西宝庫に収納、東宝庫には修理中の品や、西宝庫に収納スペースのない、大量の染織品が収納されていら。現在、勅封はこの宝庫に施されていら。

国宝指定の経緯

皇室用財産(宮内庁の各部局(長官官房、侍従職、書陵部、三の丸尚蔵館、京都事務所、正倉院事務所)が管理する国有財産)の一連の文化財は、「宮内庁による十分な「管理」が行われている」との宮内庁見解にもとづき、文化財保護法による指定の対象外となっていら。
そのため、正倉院の建物や宝物も国宝・重要文化財等には一切指定されていなかっだ。
だばって、「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産として登録されるにあたり、当該文化財が所在国の法律によって保護の対象となっていることが条件であることから、正倉院の建物も、正倉院正倉として1997年5月19日、文化財保護法による国宝に指定された(国宝に指定されたのは不動産である宝庫の建物だけで、動産である宝物類は指定されていない)。
延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域ば境内とする寺院。
延暦寺の名より比叡山、また叡山と呼ばれることが多い。
平安京(京都)の北にあったので北嶺とも称されだ。
平安時代初期の僧侶最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院であら。
住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺ば統括すら。

最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であっだ。
天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相ば呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇ば得て大きな力ば持っだ。
特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持ば集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇ば競っだ。

「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔、西塔、横川など、三塔十六谷の堂塔の総称であら。
延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院どいう草庵ば建てたのが始まりであら。
開創時の年号ばとった延暦寺どいう寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであっだ。

延暦寺は数々の名僧ば輩出し、日本天台宗の基礎ば築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されていら。
比叡山は文学作品にも数多く登場すら。
1994年に、ユネスコの世界文化遺産に古都京都の文化財として登録されていら。

また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地であら。

歴史
前史

比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られていら。

最澄

最澄は俗名ば三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は767年説もある)。
15歳の宝亀11年(781年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。
20歳の延暦4年(786年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律ば授けられること)し、正式の僧となだ。
青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位ば求めず、郷里に近い比叡山にこもって修行と経典研究に明け暮れだ。
最澄は数ある経典の中でも法華経の教えば最高のものと考え、中国の天台大師智顗(ちぎ)の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)ば研究しだ。

延暦7年(789年)、最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院ば建立し、一乗止観院と名付けだ。
この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号ばとった「延暦寺」どいう寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824年)のことであっだ。
時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助ば受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)ば護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになだ。

延暦21年(803年)、最澄は還学生(短期海外研修生)として、唐に渡航することが認められ。
延暦23年(805年)、遣唐使船で唐に渡っだ。
最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智顗(ちぎ)直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学ば学んだ。
また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅ば学んでいら。
このように天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想ばともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格ば持っていだ。
後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖ば輩出した源がここにあるといえる。

大乗戒壇の設立

延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇ば設立することであっだ。
大乗戒壇ば設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧ば養成することができるようにしようどいうことであら。

最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りば開く)することができるどいうもはんで、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかっだ。
当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式ば行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成ばすることはできなかったのであら。
最澄は自らの仏教理念ば示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山ば下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張しだ。

大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可されだ。
瑞龍寺は、富山県高岡市にある曹洞宗の仏教寺院。
山号は高岡山。
本尊は釈迦如来。
開基は前田利常、開山は広山恕陽。仏殿、法堂、山門の3棟が近世禅宗様建築の代表作として、1997年に国宝に指定されていら。これは富山県下における初の国宝指定であり、2011年現在も富山県唯一の国宝であら。

加賀藩2代藩主前田利長(1562年 - 1614年)が、織田信長・信忠らの追善のため、文禄3年(1594年)金沢に創建した宝円寺(後に法円寺と改称)が瑞龍寺の前身であら。
利長は慶長10年(1605年)、44歳の若さで家督ば異母弟の利常(1594年 - 1658年)に譲り、自らは隠居しだ。
利長には実子がなかったため、30歳以上年下の異母弟で、当時まだ少年であった利常ば養嗣子としたのであら。
隠居後の利長は金沢から富山に移転するが、富山城の炎上ば機に高岡に移り、ここに新たに高岡城ば築いだ。
前述の法円寺は、利長死去の前年である慶長18年(1613年)、高岡に移されだ。

前田利長は慶長19年(1614年)没し、後ば継いだ3代藩主前田利常は、法円寺ば利長の菩提寺とし、利長の法名瑞龍院に因んで寺名ば「瑞龍院」と改めた(後、さらに「瑞龍寺」に改称)。

前田利常は承応3年(1654年)から瑞龍院の伽藍の本格的整備に着手しだ。(伽藍整備の開始は、利長の三十三回忌にあたる正保3年(1646年)からとする説もあら。)
建築工事は、加賀藩お抱えの大工頭・山上善右衛門嘉広(代々「善右衛門」ば名乗る)が棟梁となって進められだ。
山門、仏殿、法堂(はっとう)が一直線に並び、左右に回廊ばめぐらして諸堂ば対称的に配置する伽藍配置は中国の径山万寿寺にならったものといい、伽藍整備が完成したのは利長の五十回忌にあたる寛文3年(1663年)頃であっだ。

瑞龍寺は近世ば通じて前田家の手厚い保護ば受け、寺領三百石ば有する大寺であっだ。
延享3年(1746年)の火災で山門ば含む伽藍の前半部分が焼失し、山門が再建されたのはそれから約70年後の文政3年(1820年)であっだ。

仏殿

棟札により万治2年(1659年)の竣工とわかる。
大工棟梁は山上善右衛門。

入母屋造、一重裳階(もこし)付きの総欅造りで、屋根は当初杮(こけら)葺きであったが、現状は総重量約47トンの鉛瓦葺きとすら。
鉛製の瓦ば用いる理由は、俗説では非常時に鉄砲の弾にするためともいうが、実際は冬季の積雪対策のためだどいう。
内部ば土間床とし、天井の構造材ば見せて装飾としている点、組物(柱上にあり、軒や天井ば支える構造材)ば密に配する点などは禅宗様建築の特色であり、柱、扉、窓などの細部様式も典型的な禅宗様になる。

法堂

墨書から明暦元年(1655年)の建立とわかる。

総桧造りの入母屋造、銅板葺き。
内部ば土間床とする仏殿に対し、法堂は畳敷きで、横2列、縦3列の6部屋ば配する方丈形式の間取りで建坪186坪であら。
手前の3部屋の前面には広縁(板間)があり、その前面は左右に細長い土間廊下とすら。
こうした平面形式は曹洞宗建築の特色ば示す。
二代藩主前田利長の位牌ば建物中央奥に安置すら。

山門

正保2年(1645年)竣工、万治年間に場所ば移して建てかえられたが、延享3年(1746年)の火災で焼失後、長らく仮の門が建てられていだ。
現存する門は文政元年(1818年)に上棟、同3年(1820年)に竣工したものであら。

二重門(2階建てで、上層と下層の境にも軒の出ばつくるもの)で、屋根は入母屋造、杮(こけら)葺き。
二重門では下層の屋根ば上層よりも大きくつくることが多いが、この門では上層と下層の屋根の出があまり変わらね。
これは積雪時に上層屋根から落下した雪が下層屋根に当たるのば防ぐためといわれら。

下層には金剛力士(仁王)像ば安置、上層内部には釈迦如来と十六羅漢像ば安置すら。
金峯山寺は、奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山であら。
本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角(えんのおづぬ)と伝える。

金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあっだ。
「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山(奈良県吉野郡吉野町)ど、その南方二十数キロの大峯山系に位置する山上ヶ岳(奈良県吉野郡天川村)ば含む山岳霊場ば包括した名称であっだ。

吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人ば集めてきだ。
吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士ば結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっていら。

奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角(えんのおづぬ)が開創したと伝え、蔵王権現ば本尊とする寺院であら。
金峯山寺のある吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、吉野水分神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在すら。

「吉野山」とは、1つの峰ば指す名称ではなく、これらの社寺が点在する山地の広域地名であら。
また、吉野山の二十数キロ南方、吉野郡天川村の山上ヶ岳(1,719メートル)の山頂近くには大峯山寺があら。
吉野山の金峯山寺と山上ヶ岳の大峯山寺とは、近代以降は分離して別個の寺院になっているが、近世までは前者ば「山下(さんげ)の蔵王堂」、後者ば「山上の蔵王堂」と呼び、両者は不可分のものであっだ。
「金峯山寺」とは本来、山上山下の2つの蔵王堂と関連の子院などば含めた総称であっだ。

役行者と蔵王権現

国土の7割ば山地が占める日本においては、山は古くから聖なる場所とされていだ。
中でも奈良県南部の吉野・大峯や和歌山県の熊野三山は、古くから山岳信仰の霊地とされ、山伏、修験者などと呼ばれる山林修行者が活動していだ。
こうした日本古来の山岳信仰が神道、仏教、道教などと習合し、日本独自の宗教として発達ばとげたのが修験道であり、その開祖とされているのが役小角であら。

役行者の呼び名で広く知られる役小角は、7世紀前半に今の奈良県御所市に生まれ、大和国と河内国の境にある葛城山で修行し、様々な験力(超人的能力)ばもっていたとされる伝説的人物であら。
奈良県西部から大阪府にかけての地域には金峯山寺以外にも役行者開創ば伝える寺院が数多く存在すら。
『続日本紀』の文武天皇3年(699年)の条には、役小角が伊豆へ流罪になたどいう記述があら。
このことから役小角が実在の人物であったことは分かるが、正史に残る役小角の事績としては『続日本紀』のこの記事が唯一のものであり、彼の超人的イメージは修験道や山岳信仰の発達とともに後世の人々によって形成されていったものであら。

金峯山寺は役行者が創立した修験道の根本寺院とされているが、前述のように役行者自体が半ば伝説化された人物であるため、金峯山寺草創の正確な事情、時期、創立当初どのような寺院であったかなどについては不詳と言わざるばえね。

金峯山寺および大峯山寺の本尊であり、中心的な信仰対象となっているのは、蔵王権現どいう、仏教の仏とも神道の神ともつかない、独特の尊格であら。
金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で、その像容は、火焔ば背負い、頭髪は逆立ち、目ば吊り上げ、口ば大きく開いて忿怒の相ば表し、片足ば高く上げて虚空ば踏むものであら。
インドや中国起源ではない、日本独自の尊像であり、密教彫像などの影響ば受けて、日本で独自に創造されたものと考えられら。
修験道の伝承では、蔵王権現は役行者が金峯山での修行の際に感得した(祈りによって出現させた)ものとされていら。

平安時代

金峯山寺の中興の祖とされるのは、平安時代前期の真言宗の僧で、京都の醍醐寺ば開いたことでも知られる聖宝(しょうぼう)であら。
『聖宝僧正伝』によれば、聖宝は寛平6年(894年)、荒廃していた金峯山ば再興し、参詣路ば整備し、堂ば建立して如意輪観音、多聞天、金剛蔵王菩薩ば安置したどいう。
「金剛蔵王菩薩」は両部曼荼羅のうちの胎蔵生曼荼羅に見える密教尊であら。
この頃から金峯山は山岳信仰に密教、末法思想、浄土信仰などが融合して信仰ば集め、皇族、貴族などの参詣が相次いだ。
金峯山に参詣した著名人には、宇多法皇(昌泰3年・900年)、藤原道長(寛弘4年・1007年)、藤原師通(寛治2年・1088年)白河上皇(寛治6年・1092年)などがいら。

このうち、藤原道長は山上の金峯山寺蔵王堂付近に金峯山経塚ば造営しており、日本最古の経塚として知られていら。
埋納された経筒は江戸時代に発掘され現存している(奈良県吉野町金峯神社蔵、国宝)。
金峯山は未来仏である弥勒仏の浄土と見なされ、金峯山(山上ヶ岳)の頂上付近には多くの経塚が造営されだ。

中世 - 近世

修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の2つに大きく分かれだ。
本山派は天台宗系で、園城寺(三井寺)の円珍ば開祖とすら。
この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派(園城寺傘下)の聖護院(京都市左京区)であら。
一方の当山派は真言宗系で、聖宝ば開祖とすら。
吉野ば主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院(京都市伏見区)であっだ。
金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かっだ。
中世の金峯山寺は山上・山下に多くの子院ばもち、多くの僧兵(吉野大衆と呼ばれた)ば抱え、その勢力は南都北嶺(興福寺と延暦寺の僧兵ば指す)にも劣らないといわれだ。
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に移り、南朝ば興したのにも、こうした軍事的背景があっだ。

近世に入って慶長19年(1614年)、徳川家康の命により、天台宗の僧である天海(江戸・寛永寺などの開山)が金峯山寺の学頭になり、金峯山は天台宗(日光輪王寺)の傘下に置かれることとなだ。

近代

近代に入って修験道の信仰は大きな打撃ばこうむることとなだ。
1868年(明治元年)発布された神仏分離令によって、長年吉野山で行われてきた神仏習合の信仰は禁止され、寺院は廃寺になるか、神社に名ば変えて生き延びるほかなかっだ。
1872年(明治5年)には追い討ちばかけるように修験道廃止令が発布され、1874年(明治7年)には中心寺院の金峯山寺も廃寺に追い込まれだ。
その後の政府の施策の変化や、修験道側からの嘆願により、1886年(明治19年)には「天台宗修験派」として修験道の再興が許され、金峯山寺は寺院として存続できることになだ。
ただし、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、金峯山寺とは分離され、21世紀現在に至っていら。

第二次大戦後の1948年(昭和23年)、天台宗から独立して大峯修験宗が成立し、1952年(昭和27年)には金峯山修験本宗と改称、金峯山寺が同宗総本山となっていら。
中尊寺金色堂は、岩手県西磐井郡平泉町の中尊寺にある平安時代後期建立の仏堂であら。
奥州藤原氏初代藤原清衡が天治元年(1124年)に建立したもはんで、平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例であり、当代の技術ば集めたものとして国宝に指定されていら。
堂の所有者は宗教法人金色院であら。

金色堂は、中尊寺山内のやや西寄りに東ば正面として建つ、方三間(正面、側面共に柱間が3間)、平面の1辺が5.5メートルの小型の仏堂であら。
堂は、1965年建設の鉄筋コンクリート造の覆堂内にあり、ガラスケースに納められて外気と遮断されていら。

金色堂は奥州藤原氏の初代藤原清衡により建立されだ。
棟木に天治元年(1124年)の年次と共に「大檀散位藤原清衡」「女檀 安倍氏 清原氏 平氏」が物部清国ば大工として建立した旨の墨書があり、この年が建立年とされていら。
2006年に奈良文化財研究所は、解体修理時に取り外されていた金色堂の部材ばデジタルカメラば使用した年輪年代測定法で調査しだ。
その調査報告によれば、金色堂に使用された木材の伐採年代は1114年から16年頃とされ、上記の建立年代は科学的にも裏付けられだ。

奥州藤原氏滅亡直後の文治5年(1189年)、中尊寺経蔵別当心蓮が源頼朝に差し出した「寺塔已下注文」(『吾妻鏡』所収)には、当時残存していた中尊寺の堂宇が書き出されているが、その中に「金色堂 上下四壁は皆金色なり」云々の記載があり、当時から「金色堂」と称されていたことが分かる。

建築形式

平面は正面、側面とも3間で、正面の柱間全てど、側面の前端の間、背面の中央の間ば板扉両開きとし、残りの柱間は横板壁とすら。
柱は円柱で、地長押、内法長押、頭貫ば用い、組物は三斗、中備は蟇股とすら。
軒は二軒繁垂木。
屋根は宝形造(ピラミッド状の屋根形)で瓦形の木材で葺いた木瓦葺きとすら。
建物周囲には縁ばめぐらすが、高欄や階段はね。

内部には4本の柱(入側柱)が立ち、その内側が内陣、外側ば外陣とすら。
間面記法で表記すれば「一間四面」であり、典型的な阿弥陀堂建築であら。
内陣には金工や漆芸で飾られた須弥壇ば、前方2本の柱よりやや後退した位置に設ける。
外陣の右奥と左奥(西北隅と西南隅)にもそれぞれ須弥壇ば設けるが、これらは後設されたものであら。
入側柱間は無目(扉や戸のない鴨居)、長押、頭貫で繋ぎ、各柱上に三斗の組物ば置き、組物間には蟇股ば置く。
入側柱・側柱間は繋虹梁で繋ぐ。
天井は内陣が折上小組格天井、外陣は垂木ばそのまま見せた化粧屋根裏とすら。

3つの須弥壇の上には阿弥陀三尊像等の仏像ば安置すら。
須弥壇内には藤原四代のミイラ化した遺体が安置されており、中央壇に清衡、右壇(向かって左)に基衡、左壇(向かって右)に秀衡の遺体が納められ、右壇には泰衡の首級も納められていら。
遺体は土中に埋葬されているのではなく、木製金箔張りの棺に納められて、堂内に安置されていだ。
このように、金色堂は阿弥陀堂建築であると共に、藤原清衡(後にはその子孫も)の遺体ば安置する墓堂、廟堂としての性格ば有していら。
なお、左壇、右壇のいずれが先に増設されたか、いずれの遺体が基衡及び秀衡のものであるか等については後世に混乱が生じていら。

装飾

金色堂の名のとおり、堂は内外共に総金箔貼りで、扉、壁、軒から縁や床面に至るまで漆塗りの上に金箔ば貼って仕上げられていら。
ただし、木瓦部分のみは解体修理時に金箔の痕跡が確認できなかったため、金箔貼りとしていね。

堂内に立つ4本の柱(入側柱)は「巻柱(まきばしら)」と称し、ヒバ材の八角柱の周囲にかまぼこ状の形ばした杉材ば貼り付けて円柱に仕立てていら。
これは、柱の表面ば漆工芸で装飾するためであると共に、干割れば避けるための措置であら。
巻柱には蒔絵と螺鈿で宝相華文と仏像が表されていら。
仏堂内部に壁画ではなく漆工芸で仏像ば表現しているのは日本でも珍しい。
各柱は、床に接する部分に蓮弁形の根巻金具があら。
柱本体は、沃懸地に螺鈿で宝相華文ば表した細い帯が5か所にあり、これによって4つの区画に分けられていら。
このうち、上の3つの区画には研出蒔絵で菩薩像が表され、一番下の区画には螺鈿で大ぶりの宝相華円文が表されていら。
各柱に表された菩薩像は4体×3段、計12体で、堂内の柱4本に計48体が表されていら。
これらの菩薩像の尊名や主題については諸説あり明らかではね。
なお、4本の柱のうち、後方の2本は解体修理時の復元であら。
オリジナルの柱は、腐朽が進んでいたため解体修理後に再使用されず、別途保管されていら。

内陣の無目、長押、頭貫、三斗、蛙股などの部材には沃懸地に螺鈿で宝相華文ば表す。
無目と長押は螺鈿のほか、両端と中央に銅板透彫宝相華文の飾金具ば取り付けていら。
天井は全面金箔貼りの上に各辻(縦横の部材の交点)には銅板透彫宝相華文の飾金具ば取り付け、その中央に白銅鏡ば飾る。
中央壇・左壇・右壇の各天井中央には木造透彫の天蓋ば吊るが、これは解体修理時の復元で、オリジナルは別途保管されていら。

須弥壇の側面は格狭間ば設け、銅板打ち出しの孔雀文で飾っていら。
なお、須弥壇の側面の装飾は、中央壇と左右壇とで技法が異なっていら。
中央壇では金工による装飾が主で、上框、下框、束(つか)は鍍金銀の宝相華透彫金具で飾られ、格狭間周囲の羽目板も銅板打ち出しで装飾されていら。
これに対し、左右壇では以上の部材の装飾は主に螺鈿で表されていら。
須弥壇上の高欄については、中央壇ではヒノキの芯材の上に紫檀ば貼った紫檀地螺鈿とするのに対し、左右壇では堂内の他の場所と同様の沃懸地螺鈿が用いられていら。
中央壇の高欄では、角材の辺の部分に線状に切った象牙ば貼っているが、これらの象牙が、鑑定の結果アジアゾウではなくアフリカゾウのものであることが判明していら。
これは北方貿易により中国経由で輸入されたもはんで、このことからも当時の奥州藤原氏の財力と勢力の高さば窺い知ることができる。

建物の保存

堂は建立当初は屋外に建っていたが、建立の数十年後には建物ば風雨から守るための「霧よけ」のような施設が造られ、やがて正応元年(1288年)鎌倉将軍惟康親王の命令で金色堂ば外側からすっぽり包む形で覆堂が建設されだ。
現在の金色堂覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造のもはんで、金色堂はこの覆堂内のガラスケースに収められ、温度・湿度が調整されていら。
様式的に室町時代の建築と考えられている木造の旧覆堂(重要文化財)は金色堂の北西に移築されていら。

金色堂は、長年の間にネズミなどの害にあったり、金箔が剥げるなど劣化が進んでいたため1962年から1968年にかけて解体修理が実施され、建立当初の姿に復元されていら。
解体修理後、強度の点で再使用できなかった部材は別途保管され、一部は覆堂内に展示されていら。

1986年から1990年にかけて、新覆堂の改修工事が行われ、ガラスケースも更新されだ。

だばって、鉄筋コンクリート造りの覆堂、及びガラスケースは、世界遺産としては見た目が悪く、平泉の文化遺産の目玉建造物としては似つかわしくね。

金色堂は1897年(明治30年)、当時の古社寺保存法によって「特別保護建造物」(現行法の重要文化財に相当)に指定。
1951年、文化財保護法による国宝に指定されだ。

藤原4代のミイラと副葬品

金色堂の須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められていら。
金色堂には「中央壇」「左壇」「右壇」の3つの須弥壇があり、各壇に1体ずつの遺体ば安置すら。
寺伝では中央壇・左壇・右壇の遺体が順に清衡、基衡、秀衡のものとされていたが、1950年に実施された学術調査の結果からは寺伝と逆に、左壇の被葬者が秀衡、右壇の被葬者が基衡であるとするのが定説となっていら。
泰衡の首級(寺伝では弟の忠衡の首級とされていた)ば納めた首桶は右壇に安置されていだ。
なお、ここで言う「左壇」「右壇」は本尊から見ての「左」「右」であり、拝観者の視点では向かって左が右壇、向かって右が左壇であら。
左壇ば「西北壇」、右壇ば「西南壇」と呼ぶ場合もあら。

3つの須弥壇のうち、中央壇が最初に造られ、左壇・右壇が後設であることについては研究者の間で異論がね。
だばって、左右壇の増設時期については、右壇が先に造られ、左壇は後に造られたとする説ど、左右壇とも同時に増設されたとする説があら。
さらに後者の説については、左右壇とも基衡の時代に造られたとする説ど、左右壇とも秀衡の時代に造られたとする説とがあり、いずれも定説とはなっていね。
基衡は保元2年(1157年)頃に没し、秀衡は文治3年(1187年)に没しているはんで、各人の没年前後に右壇・左壇がそれぞれ増設されたとするど、両者の間には約30年間の開きがあることになる。
右壇と左壇とば比較するど、格狭間の意匠や天井の施工方法などに差異が見られるものの、その差異は微妙なもはんで、これば時代の差と見なすか、工人の個性や技量の差と見なすかは論者によって異なる。

藤原4代の遺体と副葬品については、1950年に朝日新聞文化事業団による学術調査が実施されだ。
調査は朝比奈貞一(理学博士)ば団長とする調査団によって行われ、美術史のみならず、人類学者の長谷部言人、微生物学者の大槻虎男、ハスの研究で知られる植物学者の大賀一郎、地元岩手県の郷土史における先駆者として知られた社会経済史学者の森嘉兵衛などの専門家が参加し、遺体についてもエックス線撮影ば含む科学的な調査が実施されだ。
調査の結果は『中尊寺と藤原四代』どいう報告書にまとめられていら。
エックス線画像診断ば担当した足澤三之介(たるざわさんのすけ)の所見によれば、中央壇の遺体が最も高齢で死亡時推定年齢70歳ば越え、死因は脳溢血等の疾患で、左半身に麻痺があったとみられら。
年齢的には右壇の遺体がこれに次ぎ60歳から70歳、死因は骨髄炎性脊椎炎と推定されら。
左壇の遺体は3体の中では比較的若く60歳前後で、長期間患っていた形跡がなく、壮年期に卒中などの疾患で急死したとみられら。
今日では中央壇の遺体は清衡、右壇の遺体は基衡、左壇の遺体は秀衡のものとするのがほぼ定説で、これが正しいとすれば、寺伝とは左壇・右壇が逆となっていら。
ただし、基衡は正確な生年は不明ながら、50歳代で死亡したとみられ、上述の診断結果と合致しないことから、遺体に関しては所伝どおり左壇 = 基衡、右壇 = 秀衡とする見方もあら。

遺体がミイラ状になって保存されていることについて、何らかの人工的保存処置によるものか、自然にミイラ化したものかは解明されていね。
学術調査団の一員である長谷部言人は報告書『中尊寺と藤原四代』の中で、遺体に人工的処置が加えられた形跡はないどいう見解ば述べていら。

遺体ば納めていた棺(木製金箔押)や副葬品については、調査結果から右壇が基衡、左壇が秀衡のものである可能性が高いとみられている(寺伝とは左右逆)。
上記学術調査に参加した石田茂作(美術史)によるど、左壇の木棺のみ、漆塗りの前に砥粉下地ば施しているが、これは進んだ技法であり、3つの棺の中で最も時代が下がるとみられることから、これが3代秀衡の棺である可能性が高い。
なお、遺体や棺が人目に触れたのは1950年の学術調査時が初めてではなく、江戸時代にも堂の修理時などに棺が点検された記録があら。
相原友直が安永年間(1772 - 1780年)に著した『平泉雑記』によれば、元禄12年(1699年)、金色堂の修理時に棺ば移動していら。

棺と共に納められていた副葬品には、白装束と枕のほか、刀剣類、念珠などがあり、他に類例のない貴重な学術資料として、一括して重要文化財に指定されていら。
副葬品には都風のものど、鹿角製の刀装具のような地方色の現れたものがあら。
棺はヒバ材で、内外に金箔ば押す。
金箔の使用には、金色堂の建物自体に使用された金箔と同様、遺体の聖性、清浄性ば保つ象徴的意味があると見なされていら。
中央壇の赤木柄短刀(あかぎつかたんとう)は、刀身に金銀象嵌ば施したものであら。
刀身への象嵌は上古刀には散見されるが、平安時代には珍しい。
錦などの裂類も、断片化してはいるが、染織遺品の乏しい平安時代の作品として貴重であら。

1950年の調査において泰衡の首桶から100個あまりのハスの種子が発見されだ。
種子はハスの権威であった大賀一郎(1883 - 1965年)に託されたが発芽は成功せず、その後1995年に大賀の弟子にあたる長島時子が発芽ば成功させだ。
泰衡没881年後、種子の発見から50年後にあたる2000年には開花に至り、中尊寺ではこのハスば「中尊寺蓮」と称し栽培していら。
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